| 「「環境技術」2004年12月 特集のねらい ビオトープづくりと自然再生 竺 文彦(龍谷大学理工学部) ビオトープという言葉は、かなり一般の人々にも知られるようになってきたように思われる。一般には学校ビオトープとして、小学校の池を改造して自然な池にするような事業が各地で取り組まれており、特に教育の分野でビオトープという言葉が知られるようになってきている。しかし、元々ビオトープとは池に限らず、川も道路も建物も市街地も含めた都市的な地域において、生物が棲むことのできる場を創り出すことを意味している。 都市はコンクリートで固められ、河川や湖岸もコンクリート・ブロックで固められてきた。農村部でも水田ではほ場整備が進み、かつての小川はU字溝となり、広大なウエットランドから生物の姿が消えていった。近年流行の不耕起農法を行うと、クモやカブトエビなどさまざまな小動物が復活するという。 ただ、ビオトープという言葉は、小さな学校の池から広大な森林にまで幅広く使用され、また、自然再生という意味から元々の自然の状況に対しても用いられることがあり、厳密な用い方はされていない。本特集では、自然再生の意味でビオトープという言葉を用いることとする。 ビオトープの考え方が出てきた背景には、地球環境問題がある。人類のみが地球上で繁栄し、人口を爆発的に増やしており、他の生物を絶滅に瀕する状況に追いやっている。このままで良いのだろうか。他の生物と人間とはどのようにつきあわねばならないのであろうか。1970年代から80年代にかけて、ヨーロッパでは人間と他の動物との関係についてさまざまな議論が繰り広げられた。その結果、イルカやクジラは優秀な知能を有しており、人間の友達であるとか、牛を牛舎に閉じこめて飼うのは良くなく、牧場で自由に歩かせるべきであるとか、ダムは魚の遡上を阻み好ましくないというような動物の生きる権利を認めるべきであるという考え方が社会的に認知されるようになってきた。 このように動物は人間のために生きているわけではなく、動物自身の生きる権利を持っており、その権利を人間は保障しなければならないという考え方を背景にして、都市部や河川などコンクリートで固められた所に土を盛り草を生やし、生物の棲める空間を創り出していく事業が始められた。河川においては、周囲の土地を買い取って、蛇行した自然な河川がつくられている。砂防ダムや高い落差工は魚の遡上を阻害するため好ましくない。砂防ダムを迂回する水路や魚道がつくられ、落差工は石を用いた自然な落差工に変えられ、魚の生存を保障しようとしている。街の中にも緑地や樹林帯がつくられ、屋上の緑化や駐車場の緑化が行われている。 日本では、コンクリート化された河川を徐々に自然な河川に戻そうとしており、屋上緑化や駐車場の緑化が進められつつあるが、その考え方は広く理解されているであろうか。 日本においては、人間と動物がどう付き合うべきかという議論がこれまでほとんどなされてきていない。これはヨーロッパとは動物に対する考え方に違いがあり、生産様式にも違いがあること(農耕と牧畜)などによるものかと思われる。また、仏教とキリスト教との動物に対する考え方の違いがあるのかもしれない。 本特集においては、河川、湖沼、親水公園、屋上緑化など最近のビオトープの施工例を紹介したが、数多くのビオトープ事業がおこなわれるようになってきている。人間と生物の共存の問題を社会的な課題として捉え、ビオトープの今後の方向性について議論していく必要があるのではなかろうか。 |